新しい命の輝きがあってこそ、老人は安らかな生活を送ることができる。
自然に枯れて、自然に土に還ることができる。 参天大树的高度
何事にも執着し、邁進することはよいことであるが、限度を逸して、闇雲にしがみつくのは老醜だと感じる。

生きることに対しても、とは言わない。
生きる気力をなくすと、なんにもならない。
「生きること」にしがみつくのと、「生きる気力がある」のとは、違うと思う。
単なる言葉遊びで、表現方法だけが微妙に違うだけだと、感じるかも知れないが、
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・・・どう説明していいか、よく、わからないのだが。 yikei

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多世代家族をつなぐ求心力が何か、である。
若い世代は、自分たちのことで精一杯。
年寄り世代に首を突っ込みたくないだろう。
中心となる人物がいる、生きている、ということ。
では、その人が亡くなると?
また、新たな求心力となる人物が受け継ぎ現れることだろう。
現れない場合もある。
それは、それで、おしまい、ストップ。
強制力を持たない制度は、もろい。
続けるには、かなりの信念とエネルギーが必要である。

家父長制度のように、意識、概念、制度が社会全体で無理やりなら、
不満や悲劇も多いが、それなりに続いていく。
それがなくなった今、それに変わるものは、あるのか?
おそらくないのでは?

地方の家は、跡継ぎがなくなっていることだろう。
(根無し草の人々が寄り集まっている都会は、もともと価値観が違うので、ここでは言及しない)
しかし、頑張っている人々もいる。oxfe

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価値観は、ひとそれぞれ、家族の中でも一致しないことが多い。
こころの中身をどう表現し、実行するか、それも、ひとそれぞれである。
家族の中で、メンバーそれぞれが、バラバラというのはいいと思わないが、
各、各々の家族には、各々の家族としての考えがあるだろう。居家小美
各家族の考え、思惑、ポリシーに従って、行動するのがよろしいかと思う。
ポリシーが無いというポリシーも、よろしいかと思う。
毎日が楽しければそれでよし、何事もなければよし、というのも、ある意味、正解のひとつである。
何が正しいとか、間違っているとかはない。 越努力,越幸运