2014年01月

まあ、問題と言っても、大した問題じゃあないんだけどね、例によって、、、。


 家に帰るためには、竹の切り出しが行われている竹林の脇を通らなければいけない、、、と、たったこれだけの問題なの。(笑)


 いや、通らずに済む道筋も無いことは無いのだけど、その道筋を行くのは非常に遠回りになってしまうし、その道筋ときたら、高台に建つ小学校の敷地に沿って急な坂を下り、下りきったら今度は裏門に通じる道を登るといった、太もも並びにその下に続く脚と呼ばれる部分の筋力が極端に弱っている老人泣かせの、アップダウンの激しい道なのだ。


 そんな道を金輪際歩きたくないわたしは、


「ま、しょうがないか」と項垂れて、犬の進むまま、いつもの道を帰途についた。


 そして歩いている途中、自分を正当化するためのあれこれを考えた。


「今度のばやい(場合)は、そんなに後ろめたさを感じなくても良いんじゃね?自治会長はおろか組長さんにだって声を掛けられたわけでもないし、回覧板だって、、、ん?回覧板は見てなかったな~、ひょっとして書いてあったか知んない、“どんどや準備に、奮ってご参加下さい”とかなんとか、、、。ま、しかし、それは当日暇な人に向けての呼び掛けだろうし、俺は祭日だって仕事があるわけだし、こうして仕事の合間をぬって犬の散歩だってあるわけだし、そんな呼び掛けに応じるほど暇じゃないわけよね、だ~ら(だから)、文句無いんじゃね?竹の切り出し手伝わなくっても」


 そう考えると、どんどや準備有志の方々の、額の汗や白く吐き出される息遣いに対してのやましいような済まないような気持ちが消えて、わたしの胸は少しばかり張り出し、足取りも軽くなった。


「でもよ」


 せっかく軽くなった足取りが、また重くなる。


「犬の散歩をしてる暇があったら、竹の切り出し並びに運搬を手伝えば良いのに、とか思うんじゃなかろうか?犬の散歩って、それも今くらいの時間の散歩って、いかにも暇そうに見えるし」


 わたしの足は止まり、引き返して困難な道を行くべきかと考える。


「いやいや、暇と犬の散歩を同列に考えてはいけない。暇だから犬の散歩をするのではなく、犬に散歩が必要だからするのだ。かのローレンツ博士(だったかな)が言ってたではないか、“犬にとって最大の喜びは、朝夕の散歩なのだ”と」


 よしよしと、わたしは再び胸を張って歩き出した。


「もし、犬の散歩をする暇があったらと糾弾する輩がいたならば、ローレンツ博士の言葉を投げつけてくれよう」

 わたしの頭は、自問自答及び仮想敵とのやりとりで少しばかり草臥れていた。


 そのせいで、孟宗竹林沿いの道に出た時は、なんだか突然その道が、何処からとも無く目の前に現われたような気がした。




 *風邪は昨日がピークのようで、きょうは幾分良い見たいです。

案じて下さりコメント頂いた方に、この場を借りて感謝です!

 

彼らと言葉を交わしたことは何度もある。だから、どの機会だったかはっきりしない。とにかくサンフランシスコ市内のカフェだ。白黒ツートンのポリスカーが、カフェに横付けすることはよくある。もちろんコーヒーを買うのだ。

僕が声をかけた理由は、いい感じの笑顔を交わしたから。〝How's it going, officer?〟ではじまり、なんの気なしに、こんなことを訊いてみた。

「ポリスマンていうのも、そんなに悪い職業じゃなさそうですね?」

思ってもいなかった答えが返ってきたのだよ。コーヒーを待つあいだも、ガンベルトに両手をひっかけ、大きく胸を張っていたその白人男性(コーケイジャン)は、こう言った。

悪くないね、子供のころからスーパーマンが大好きだったしね。

おもしろいじゃないか! そう思った。子供っぽい? バカバカしい? 薄っぺらい? 軽口? いやいや、待てよ……彼が笑顔を残して去ってからも、もっとよく考えてみた。

これ以上信頼のおける〝動機〟は……ないんじゃないか……?

ここで考えたいのは、はたして日本人にこんなことが言えるか──である。もちろん答えは〝NO〟だ。なぜか? 二重三重に〝枷(かせ)〟をはめられているからだ。

そもそも〝言葉〟が妨げになる。日本語の言語構造は、〝関係〟を切り離すことができない。敬語法が中枢に入り込んでいて、相手次第で言葉遣いを変えねばならない。そのため、

〝関係〟のはっきりしない、〝知らない相手(ストレンジャー)〟とは、コミュニケーションしづらい。

これが〝枷〟のひとつ。さらに、〝上下関係〟を重視する〝しきたり(トラディション)〟から、

相手に〝おもねる〟ことが〝善し〟とされる。

↑このページのトップヘ